

ラーメン店経営から町おこしまで。デビット伊東のネクストキャリア物語。
ヒロミさん、ミスターちんさんとともにお笑いトリオ「B21スペシャル」のメンバーとして、ダウンタウンやウッチャンナンチャンらと並ぶ、“お笑い第三世代”の一角を担ったデビット伊東さん。現在は俳優、そしてラーメン店を営む実業家として知られていますが、これまでの半生にはキャリアに影響をおよぼす幾多の分岐点がありました。
「ラーメンの世界も舞台の世界も、僕の中では実は同じなんです。ラーメンはベースのスープをつくって、そこにさまざまな要素を足して仕上げていきます。俳優の仕事もまた、あたえられたセリフをただ読み上げるのではなく、自分なりの色を足していかなければなりません。だから、どちらの世界もおもしろいんですよ」
最盛期には国内外で10店舗まで拡大したラーメン店を、コロナ禍により閉店や譲渡ですべて手放したばかり。それでも、その軽やかな口調からは、迷いや失望は一切感じられません。それも、過去に何度もキャリアチェンジを重ねてきた自身に対する信頼があればこそ、でしょう。

現在は移住先の神奈川県真鶴町で、能子夫人とともにラーメン店「伊藤商店」を切り盛りするデビット伊東さんに、これまでの体験と今後の展望をお聞きしました。
番組の一企画のはずが、ラーメンの世界に本気で向き合うようになったワケ。
――デビットさんがラーメン店の修業をはじめたのは、お笑い芸人としても俳優としても多忙を極めていた2000年のことでした。まずは当時の状況から聞かせてください。
これは以前レギュラー出演していた『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ系)という番組での企画でした。企画書をぽんと渡されたときは、率直に「これはおもしろそうだな」と思ったのを覚えています。

というのも、僕は高校を卒業してから、地元で水泳のコーチをやっていたことはありましたけど、あとはヒロミさんやちんさんと出会ったショーパブくらいでしかアルバイトの経験がなかったんです。
つまり、ほとんど芸能界でしか仕事をしたことがなかったので、ラーメン店で働けるというのはそれだけで魅力的に感じられました。
――とはいえ、芸能人として多忙な生活を送るなか、一から厳しい修業を積むことに抵抗はありませんでしたか?
修業をすること自体にはまったく抵抗はなかったけど、そのときはもう番組のレギュラーを外れていたし、今さら僕がそうした企画に乗ることにどのような意味があるのか、という葛藤はありました。
そこで逆に、とんねるずのお二人に聞きに行ったんです。「この企画、僕はどうすればいいですかね」と。すると、「いいからやれ」と言われたので、「はい、わかりました」と答えて、その場で企画が成立したんです。
――ちなみにインターネット上では、「足をケガして芸能界の仕事を続けるか悩んでいたときに、この企画によってラーメン店経営に転向する決意をした」といった説が流布しているようですが……。
え、そうなんですか? それはまったくのデマですよ。だって、芸能界を辞めようか悩んだことなんて一度もないですから(笑)。
ただそのころ、左足が腓骨神経麻痺になって膝から下がまったく動かなかったのは事実なんです。バラエティにもドラマにも装具を付けて出演していましたからね。今も完全に治ったわけではなくて、足の先までずっと痺れている状態です。
――そんな状態で、実際にラーメン店での修業を経験してみていかがでしたか?
足のことはさておき、これはテレビの悪いところなのですが、高級ホテルを押さえてくれたりするんです。でも修業の身なのに、絵的にもおかしいじゃないですか。いくらテレビの企画とはいえ嘘をつくのはいやだったので、普通のアパートに移って3か月間、毎日朝9時から深夜3時まで働かせてもらいました。
最初は番組のコーナーを成立させるために全力でがんばっていたんですけど、すぐに「これはそんな程度では成立しないぞ」と感じて、自分のラーメンをつくるために真剣に勉強するようになりました。
ラーメンも芝居も、「お客さんを喜ばせたい」という想いは同じ。
――ラーメンに本気になった理由は何だったのでしょうか。
飲食の仕事が、思いのほか芸能界に似ていることに気づいたからです。そこが厨房なのか劇場なのかの違いでしかなくて、毎日毎日、訪れるお客さんを楽しませるという点は完全に一致しています。だから洗い場に入っているときも、誰よりも大きな声を出してやろうと気合を入れていましたね。
実際にラーメンをつくらせてもらうようになってからは尚更ですよ。頭の中で目指す完成形をイメージしながら、スープにタレや具材を加えていき、ひとつの作品に仕上げて提供する。それをお客さんの前でやるのは、お芝居やコントと同じです。
今だって、店で麺を湯切りするときなど、舞台同様に「みんな、俺を見てくれ!」と思っていますからね(笑)。

――芸能界とラーメン店経営を両立する決意をしたのはなぜですか?
番組の中で店舗を出すところまでやらせてもらって、本当は企画が終わったら店から手を引くつもりでいたんです。
でも、一緒に働いてくれたスタッフのことを考えると、彼らにもチャンスをあたえてやりたいという気持ちが芽生えはじめて。結局、番組から事業を譲り受けるかたちで、その後は自分の責任で店を経営する覚悟を決めました。
その意味ではあの企画が人生の分岐点だったわけですけど、僕としては勝手に風が吹いてきて、なんとなくそれに乗ってみただけなんですよ。ただ、いざ乗ってみたら、それが予想以上に大きな風だったということです。自分としては予想外な展開でしたけどね(笑)。
――その後、海外も含めて10店舗まで事業は拡大します。その過程ではさまざまな壁や挫折もあったのでは?