(後編)ナイツ 軸さえぶれなければ、どんな経験でも栄養になる。
実力派漫才コンビとして幅広い人気を誇るナイツ。インタビュー前編では、20代前半でコンビを結成した直後に訪れた危機、そして今や2人の武器となっている「浅草芸人」になったいきさつなどを明かしてくれました。後編では、足かけ15年にわたって挑戦し続けた「M-1グランプリ」のことや、30歳前に訪れた心境の変化について伺います。
(前編)ナイツ つまずき続きの20代。逆境の中でつかんだ最強の武器。
自分がおもしろいと思わなくても「ウケそうなネタ」をやっていた。
──「M-1グランプリ」には、いつから参加されていたんですか?
土屋:2001年、ちょうど僕らがナイツとして活動し始めて間もないときでした。それから2010年にM-1がいったん終了するまでの10年間と、再び開始した2015年に参加しました。その間、寄席にも出ていたんですが、もしも寄席でウケることだけを考えていたら、僕らの漫才はもっと古臭いものになっていた気がします。結局一度も優勝はできなかったんですが、M-1っていう大きな目標が常にあったから、寄席でもいろいろ新しいことを試し続けられたんじゃないかな。
塙:2007年で初めて準決勝に進んだんですが、そのときのネタが「ヤホー漫才」だったんです。それまでは、全然手応えなし。今思うと、「ナイツ」っぽさがなかったんでしょうね。「なんか見たことあるような漫才だな」って思われてたのかもしれないです。
──その当時、ネタは誰が考えていたんですか?
土屋:2006年くらいまでは2人で考えてたんですよ。ファミレスとかに集まって、ゼロから考える。でもゼロから話しても、結局何も決まらないんですよね。最終的には塙さんの家で一緒にファミコンとかやっちゃったりして。
塙:あと、当時僕が夜の10時から夜勤のアルバイトをしてたから、9時くらいには終わらせなきゃいけない。そうすると「この前、誰かがやったこういう感じのネタがウケてたから、こういうのをやってみよう」みたいになってきちゃうんですよね。あのころの一番の失敗は、自分がおもしろいと思っていないことでも「今こういうのがウケるから」ってやっちゃってたことですね。今、M-1の1回戦とか見てると、それがわかるんですよ。「今流行ってるからこういうネタをやってるんだろうな」とか。芸人の誰もが20代で必ず通る道だとは思うんですけど。
30歳目前にして誕生した「ヤホー漫才」で人気爆発。
──そういう状況は、いつ変わったんでしょうか。